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標準という神話
ホセ・セバスティアン・フィゲロア・パエス(He/Him)
私たちは人生の多くを、目標を追いかけることに費やしている。自分自身の目標、他人の目標、そしてときに、不可能な目標を。他人の期待に応えられないこと、愛する人々を失望させてしまうことへの恐れは、ほとんどあらゆる人に共通する感情だと思う。そして少し前まで、それは私自身の最大の恐れの一つでもあった。この恐れがすっかり消えることはないだろう。けれどここ数年で、私はこんなことを学んだ。何かを成し遂げられるかどうかは、自分が「十分に良い」かどうか、「十分に努力した」かどうか、「十分なお金や運がある」かどうかに、必ずしもかかってはいないのだ、と。確かにそういう要素が、私たちの成功をきれいに説明してくれる場面もある。けれど別の場面では、そんなものは何の意味も持たない。問題は私たちにあるのではなく、システムの方が壊れているからだ。これらのシステムは、私たちを意図的に貶めようとして作られたわけではない。ただ、私たちのために設計されていないだけのことだ。だが望もうと望むまいと、私たちはそのシステムに属している。私の経験では、こうしたシステムの多くは、私たちを数字や統計として見て、データ・アナリストが気づかないままに、私たちから人間性を奪い取っていく。本稿の焦点は、この「標準化されたシステム」である。
まず、人間性が奪われることは、必ずしも私たち自身の落ち度ではない。それは信頼の連なりが招く結果である。私自身、標準化が引き起こす目立った間違いを、これまで見たことはなかった。せいぜい、その不具合の小さな兆しを感じていただけで、それを言葉にすることもなく過ごしてきた。本稿を書くまでは。私はずっと、優秀な生徒として見られてきた。賢く、責任感があると。これは、私が属していたシステムが、私のことを「数字が良い」という理由で尊重してくれていたからこそだった、と気づくのは、ずっと後になってからだった。私の数字が良いから、私という人間を知り、理解する価値がある、と判断されていた。人々は私を信頼してくれた。教育システムが、私を彼らが知る限り最も優秀な生徒の一人だと言っていたから。それを上回る数字を持つ集団が、そこには存在しなかったから。当然、私の側も人々を信頼していた。だから、自分より優れた人間など存在しない、と思い込んでいた。国際バカロレアでも、私の学校で学んだ人たちは、45点満点中36点という成績を「不可能」だと見ていた。誰も達成したことがなかったからだ。だからそうした人々は、存在しないことになる。36点以上が実際にはあり得るかもしれない。国際バカロレアのシステムも、その存在を認めているかもしれない。けれど私たちにとっては、彼らは人ではなく、手の届かない数字だった。
私は外国の大学に出願した。そうするよう励まされたからだし、メキシコでは——たとえ奨学金でずっと通いやすかったとしても——多くの期待を満たせないと感じていたからだ。出願するとき、私は思っていた。自分の成し遂げてきたことは、国際的システムにおける凡庸な数字よりも価値があるはずだ、と。けれど、もうひとつ計算に入っていなかったことがあった。自分はもはや、自分の文脈における優秀な人間の一人ではなく、平均的な数字に過ぎなくなっていたのだ。周りから見れば、私はいまや「32」だった。多くの場合、それ以上深く調べる価値もないと見なされる数字。国際的な標準には届かず、もっと低い数字が並ぶ文脈での標準にしか合致しない数字。私が合格したのは、私を数字ではなく、物語を持つひとりの人間として見てくれた大学だけだった。他の出願先で不合格になった理由を、私は理解できていなかった。出願した数も少なかったし、もともと第一志望だった大学には受かったので、わざわざ調べる気にもならなかった。同じく、人々を失望させるのが怖かったけれど、それも不可能に見えた。不合格を伝えた人々にとって、それは大学側の間違いに見えたからだ。私のではなく。彼らにとって、私の数字は依然として最上位のままだった。けれど大学に入って、これが変わった。もっと高い数字を持つ人たちが、現実に存在していたのだ。そして彼らは、私よりずっと優れていた。
最初の一週間で、私は「43」と「38」に出会った。最初は、彼らは数字だった。前より少しは具体的になった、けれどそれでも数字だった。会話を重ねるうちに、私たちは互いを人間として見ることを学んでいった。私はもう最も優秀な存在ではなかった。ただ平均より少し上というだけで、それまで知っていた世界から遠く離れた場所にいた。私の元の文脈にとっては、43と38の背後にいる人々はまだ数字だったけれど、私にとって彼らはもう人間だった。異なる視点を持つ人間で、私の「32」が彼らの文脈では失敗を意味するということを教えてくれる人間だった。自分の数字が誇りの印から、恥の理由へと変わるのは、なんとあっけないことだろう。幸い、私たちはこの新しいシステムの中では、もうあの古い数字ではなかった。少なくとも対話を重ねたあとでは、それらの数字は私たちという人間のごく取るに足らない一部分しか映していなかったし、文脈の違いがどれほど大切かという真実を浮かび上がらせるものでもあった——標準化は、その違いが存在しないかのように振る舞うけれど。標準化のもうひとつの問題に私が気づいたのは、まさにあの日のことだった。共有された文脈という神話である。
正規分布に揃えてシステムを作るとき——多くの教育システムがそうするように——私たちは、人を分類することを可能にするような「共有された文脈」が存在する、と仮定している。みんな同じ機会と学歴を持っているのだから、数字として分類するのは自然なことだ、と。そして数字は量的なものである。この神話が、標準化を簡単にしてくれる。「優秀な人と劣った人」がいることは別に問題ではない、なぜなら私たちが分類しているのは数字であって、人間ではないのだから——という前提が滑り込む。システムは、数字の背後の人間を、その人が払った努力を、いやそれどころか、その人の本当の力量さえも、覆い隠してしまう。私たちは、自分自身の能力や好みや人柄を持った人間として認められるのではなく、認められるために他人と戦わなければならなくなる。たとえ「優秀」だったとしても、この指標は、私たちの文脈を考慮に入れない。学歴の質、優秀な家庭教師や教師がいるかどうか、利用できる資源がどれだけあるか——こうしたものはみな、私たちの能力やその他の特性の発達に影響する。これらすべてを考慮するのは難しい。教育以上に複雑で、もっと深く内面化されたシステムを正すのは、さらに難しい。
「もっと多くを受け取るに値する人々がいる」というナラティブは、多くの文脈で深く内面化されている。数字を使わずにシステムが機能しうると人々に納得してもらうのは、容易ではない。このナラティブは、これだけ多くのシステムが標準化されている現在では、いっそう信じやすくなっている。国際的なシステムの話となれば、なおさら難しい。そこでは、低い数字と高い数字は、そのシステムに属する多くの局所的な文脈には存在しないのだから。私のケースも例外ではなかった。システムが壊れていることに気づいたのは、それが私自身に対して機能しなくなったときだった。こうした懸念を、それを経験していない人に伝えるのは、簡単なことではない。多くの場合、無力感を伴うからだ。不公平なシステムから恩恵を受けている側にいるとき、自分がいまの場所にいるのは自分の功績だけのおかげではない、と信じるのは難しい。とはいえ、納得してもらうことは不可能ではない。
そして納得してもらうためには、私たち自身が信頼に値する存在でなければならない。システムが機能していないと、どうやって他人に納得してもらえばよいのか——とりわけそのシステムが、私たちのことを「望ましくない者」として見ているような場合に。システムに異を唱えるのには大きな勇気が必要だ。そこから抜け出すには、もっと大きな勇気が要る。そのシステムが「これが唯一可能な解だ」と語っているような場面では、なおさらだ。私のいた文脈の多くの人は、おそらく国際バカロレアが、特にその点数が、私を今の場所へ連れてきたと考えているだろう。あれが私の能力をいくらか伸ばしてくれたのは事実だ。けれど他人が見るあの数字は、それらの能力を代表してはいない。システムから出ることは、難しい判断であるだけでなく、よりよい方向に進むことを保証してくれるわけでもない。その判断をする人の道のりを、いっそう複雑にする。
それと同時に、システムは人々の信頼に依存している。信頼する人が減れば、それだけシステムの力は弱まる。この弱さが、システム改革の余地を広げる。標準化のおかげで、これまで存在しないことになっていた文脈に、抑圧されている人々が現れてくる、という方向の改革を。けれど、こうした解決策は、たしかにあり得るとしても、望ましくない。なぜ私たちは、他者の苦しみを望まなくてはならないのか。システムの不公正さを見るための方法は、これだけではない。もうひとつの方法は、耳を傾けることである。耳を傾け合うことに、価値があるからだ。私たちに、価値があるからだ。私たち自身がそれを知り、信じる必要がある。そして何よりも、それを外へ向けて表現する必要がある。
結局のところ、私たちはみな、これほどに多次元で、これほどに複雑で、これほどに価値ある存在なのだ。数字はその点、ずっと単純である。量的で、抽象的で、扱いやすい。システムはこれらを好む。意思決定を早めるために、そして気づかないうちに、ある人たちを優遇するために。問題は、数字が私たちの人間性を覆い隠してしまうことだ。「32」とも「38」とも「43」とも、共感することはできない。なぜなら、それらの数字が語る物語は、ある人が別の人より価値が低い、ということだからだ。それなら——どうやって私たちは、数字の背後にある本当の物語を、思い出すことができるだろうか。
壊れたシステムを直すための、簡単な手順や指示書のようなものは存在しない。けれど、もし最初の一歩があるとすれば、それは共感である。意味のある変化はすべて、人間化から始まる。「43」を高い値として、「32」を平均として見ることをやめたときに、ようやく私たちは、その背後にいる人間性に耳を澄ますことができる。そのときはじめて、大切な物語を、感じている視点を、生きている人間を、聴くことができる。そしてそのときはじめて、数字は、私たちがかぶっている仮面ではなくなる。
ホセ・セバスティアン・フィゲロア・パエス(He/Him)
こんにちは、セバスティアンです!ミネルバ大学の学生として、この複雑な世界での自分の立ち位置を探りながら、誰もの暮らしを少し豊かにできるものを考え続けています。大勢の流れに逆らう人たちや、面白い論拠を持つ人たちとの出会いが特に好きです。Medium でも私の文章や創作活動をご覧いただけます(今のところ記事は一本ですが)。前号(田原バージョン)と兄弟と一緒に運営する YouTube チャンネルでも: https://www.youtube.com/@RealTrainOfThought
The Myth of the Standard
José Sebastián Figueroa Paez (He/Him)
We spend our lives chasing goals: some our own, some others’, and some… impossible ones. I believe that the fear of not meeting others’ expectations and disappointing those we love is an almost universal feeling—and until recently, one of my greatest fears. This fear will never fully go away. But in recent years, I’ve learned that achieving something doesn’t depend on being good enough, on putting in enough effort, or on having enough money or luck. Sometimes these factors explain our success perfectly. Sometimes none of it matters, because the system is what fails, not us. These systems aren’t designed to humiliate or make us invisible on purpose—they’re simply systems that weren’t designed for us, but to which, whether we like it or not, we belong all the same. In my experience, many of these systems are the ones that see us as numbers and statistics, dehumanizing us without the data analyst even noticing. Standardized systems will be the focus of this essay.
First, dehumanization isn’t necessarily our fault—it’s the fault of a chain of trust. In my case, I had never seen notable errors in standardization, only hints of the flaws I never formalized until writing this essay. In my context, I was always perceived as an outstanding student: intelligent and responsible. I didn’t realize until much later that this was because I belonged to a system that respected me simply because my number looked good—which made it worth knowing and understanding me as a person. People trusted me because the educational system said I was one of the best students they knew, because there was no group with higher numbers or characteristics. Naturally, I trusted people too, so I assumed no one better than me existed. Even in the International Baccalaureate, people who studied at my school saw a score of 36 out of 45 as impossible, since no one had achieved it. So those people didn’t exist. Scores of 36 or above might exist in reality, and the IB system might acknowledge them, but to us they weren’t people: they were unreachable numbers.
I applied to universities abroad, encouraged to do so, since Mexico—even with the scholarships offered to me—couldn’t fulfill many of our expectations. When applying, I thought my achievements were more valuable than my mediocre numbers in the international system, but I hadn’t counted on the fact that I was no longer one of the best people in my context—I was now an average number. To others, I was now a 32. A number not worth examining more closely in many cases, since it didn’t measure up to an international standard, only to a standard in a context of lower numbers. I was only accepted at the university where I didn’t seem like a number, but a person with a story. I didn’t understand why I was rejected by the other universities I applied to—there were few of them, and I was accepted to the one I originally wanted, so I didn’t bother to find out. Similarly, I feared disappointing people, but it seemed impossible: to those I told about my rejections, this appeared to be the universities’ mistake, not mine. For them, my number was still among the best. That changed when I entered university, because higher numbers existed in reality, and those people were much better than me.
In the first week, I met 43 and 38. Initially, they were numbers—more tangible than before, but numbers nonetheless. Conversation after conversation, we learned to see each other as people. I was no longer the best; I was merely above average, far from the world I had known. For my original context, the people behind 43 and 38 were still numbers, but to me they had become human beings with a different perspective—one that showed me that a 32 in their context implied failure. It’s curious how easily our number shifts from a mark of pride to a reason for shame. Fortunately, in this new system we were no longer those old numbers. After our conversations, those numbers showed only an insignificant fraction of who we were, and a truth about the importance of contextual differences that standardization pretends don’t exist. It wasn’t until that day that I noticed another problem with standardization: the myth of a shared context.
When building a system aligned to a normal distribution—as many educational systems do—we assume there is a shared context that allows us to classify people. Since everyone has the same opportunities and academic backgrounds, the logic goes, it’s natural to classify us as numbers, and numbers are quantitative. The myth facilitates standardization, implying that having “better and worse” people is unproblematic, since we’re categorizing numbers, not people. The system hides the person behind the number, the effort they put in, and even their true performance. We end up competing against others to be recognized, instead of being recognized as people with our own abilities, affinities, and personalities. Even for those deemed “better,” this metric ignores context—the quality of one’s academic background, access to more qualified tutors and teachers, or available resources—all of which affect skill development and other characteristics. Considering all these factors is difficult. Fixing systems even more complex and deeply internalized than the educational one is harder still.
The narrative that some people deserve more is deeply internalized in many contexts. It’s difficult to convince people that a system can function without quantifying, especially when so many systems are standardized and the narrative is easy to believe. It’s even harder when it comes to an international system, where low and high numbers don’t exist in many local contexts that belong to the system. My case was no different. I didn’t realize the system was broken until it failed me. It’s hard to externalize these concerns—usually laden with feelings of powerlessness—to someone who hasn’t lived them. When you benefit from an unjust system, it’s hard to believe it’s not just your own merit that brought you where you are. Even so, it is possible to convince.
And to convince, we need to be credible. How can we convince others that the system doesn’t work—especially when it sees us as undesirables? It takes a great deal of courage to contradict a system, and even more to leave it when the narrative it tells is that it’s the only solution available. Many people in my context probably believe that the International Baccalaureate—particularly its grades—brought me to where I am. I know it helped me develop some skills, but the number others see is not representative of those skills. Besides being a difficult decision, leaving the system doesn’t guarantee improvement, and it will complicate the path for those who choose it.
At the same time, the system depends on people’s trust, and the fewer people trust it, the less power it holds. This weakness opens more possibilities for reform—reform that, thanks to standardization, will bring the oppressed into contexts where they didn’t previously exist. But this solution, though plausible, is undesirable. Why would we want others to suffer? This isn’t the only way to see the injustices of a system. The alternative is to listen, because listening to each other is worthwhile. Because we are worthwhile. Because we must know and believe that we are, and above all, we must show it.
In the end, we are all such multidimensional, such complicated, and such valuable people. Numbers, on the other hand, are simple: quantifiable, abstract, easy to use. The system prefers them to speed up decisions and, inadvertently, to benefit some. The problem is that our number hides our humanity. You can’t empathize with a 32, a 38, or a 43, because the story they tell is that one is worth less than another. So—how do we remember the true story behind the number?
There are no instructions or simple steps to fix these broken systems, but if there is a first step, it is empathy. All meaningful change begins with humanization. Only when we stop seeing a 43 as a high value or a 32 as an average can we finally listen to the humanity behind them. Then we will hear the story that matters, the perspective that feels, and the person who lives. And only then will the number stop being the mask we wear.
José Sebastián Figueroa Paez (He/Him)
Hey, I’m Sebastián! I’m a Minerva University student trying to figure out my standing in this overly complicated world, while thinking about what can help make life a bit nicer to everyone. I enjoy meeting people and their ideas, particularly those that go against the current and those with an interesting reasoning behind it! You can read a bit more of my writing and my creative endeavors on Medium (though I only have one article), the previous edition (of the Tahara version), and on my joint YouTube channel with my brother: https://www.youtube.com/@RealTrainOfThought
표준이라는 신화
호세 세바스티안 피게로아 파에스(He/Him)
우리는 삶의 많은 부분을 목표를 쫓는 데 보낸다. 자신의 목표, 타인의 목표, 그리고 때로는… 불가능한 목표를. 타인의 기대에 부응하지 못하고 사랑하는 사람들을 실망시킬 것에 대한 두려움은 거의 모든 사람에게 공통된 감정이라고 생각한다. 그리고 얼마 전까지, 그것은 나 자신의 가장 큰 두려움 중 하나이기도 했다. 이 두려움은 완전히 사라지지 않을 것이다. 하지만 지난 몇 년간 나는 이것을 배웠다. 무언가를 이뤄낼 수 있는지의 여부는, 내가 “충분히 좋은가”, “충분히 노력했는가”, “충분한 돈이나 운이 있는가”에 달려 있지 않다는 것을. 물론 그런 요소들이 우리의 성공을 깔끔하게 설명해 주는 경우도 있다. 하지만 어떤 경우에는 그것들이 아무런 의미도 없다. 문제는 우리에게 있는 것이 아니라, 시스템 자체가 망가져 있기 때문이다. 이러한 시스템들은 우리를 의도적으로 비하하거나 보이지 않게 만들려고 설계된 것이 아니다. 다만 우리를 위해 설계되지 않은 것뿐이다. 하지만 원하든 원하지 않든, 우리는 그 시스템에 속해 있다. 나의 경험에서, 이런 시스템들의 상당수는 우리를 숫자와 통계로 보며, 데이터 분석가가 알아채지도 못하는 사이에 우리를 비인간화한다. 이 에세이의 초점은 표준화된 시스템이다.
우선, 비인간화는 반드시 우리 자신의 잘못이 아니다. 그것은 신뢰의 연쇄가 빚어내는 결과이다. 나 자신도 표준화가 일으키는 뚜렷한 오류를 이전까지는 본 적이 없었다. 기껏해야 그 결함의 작은 징후를 느꼈을 뿐이고, 이 글을 쓰기 전까지는 그것을 말로 표현한 적도 없었다. 나는 늘 우수한 학생으로 여겨졌다. 지적이고 책임감 있다고. 나중에야 알게 되었지만, 이것은 내가 속한 시스템이 나의 “숫자가 좋다”는 이유로 나를 존중해 주었기 때문이었다. 내 숫자가 좋으니 나라는 사람을 알고 이해할 가치가 있다고 판단된 것이다. 사람들은 나를 신뢰했다. 교육 시스템이 나를 그들이 아는 가장 우수한 학생 중 하나라고 말했기 때문에, 그것을 능가하는 숫자를 가진 집단이 거기에는 없었기 때문에. 당연히 나도 사람들을 신뢰했고, 나보다 뛰어난 사람은 없다고 믿었다. 국제 바칼로레아에서도, 내 학교에서 공부한 사람들은 45점 만점에 36점이라는 점수를 “불가능”하다고 보았다. 아무도 이루지 못했기 때문이다. 따라서 그런 사람들은 존재하지 않는다. 36점 이상이 실제로 존재하고, IB 시스템도 그 존재를 인정할지 모르지만, 우리에게 그들은 사람이 아니라 손에 닿지 않는 숫자였다.
나는 해외 대학에 지원했다. 그렇게 하도록 권유받았고, 멕시코는—아무리 장학금으로 훨씬 접근하기 쉬웠다 해도—많은 기대를 충족시킬 수 없다고 느꼈기 때문이다. 지원할 때 나는 내 성취가 국제 시스템에서의 평범한 숫자보다 더 가치 있을 것이라고 생각했다. 하지만 한 가지를 계산에 넣지 않았다. 나는 더 이상 내 맥락 안에서의 우수한 사람이 아니라, 이제 평균적인 숫자에 불과했다는 것을. 남들에게 나는 이제 “32”였다. 많은 경우 더 깊이 들여다볼 가치도 없는 숫자. 국제적인 표준에는 못 미치고, 더 낮은 숫자들이 늘어선 맥락의 표준에만 맞는 숫자. 내가 합격한 유일한 대학은, 나를 숫자가 아닌 이야기를 가진 한 사람으로 봐 준 곳이었다. 왜 다른 대학들에서 불합격했는지 이해하지 못했다. 지원한 곳도 적었고, 원래 1지망이었던 대학에는 합격했기 때문에 굳이 알아보지 않았다. 또한 사람들을 실망시키는 것이 두려웠지만, 그것은 불가능해 보였다. 불합격 소식을 전한 사람들에게 그것은 내 잘못이 아니라 대학 쪽의 실수로 보였기 때문이다. 그들에게 내 숫자는 여전히 최상위였다. 하지만 대학에 입학하면서 이것이 바뀌었다. 더 높은 숫자를 가진 사람들이 현실에 존재했고, 그들은 나보다 훨씬 뛰어났다.
첫 주에 나는 “43”과 “38”을 만났다. 처음에는 그들도 숫자였다. 이전보다 조금 더 구체적이었지만 여전히 숫자였다. 대화를 거듭하면서 우리는 서로를 사람으로 바라보는 법을 배워 갔다. 나는 더 이상 가장 뛰어난 존재가 아니었다. 그저 평균보다 조금 위일 뿐이었고, 내가 알고 있던 세계에서 멀리 벗어나 있었다. 내 본래 맥락에서는 43과 38 뒤에 있는 사람들이 여전히 숫자였지만, 나에게 그들은 이미 인간이었다. 다른 시각을 가진 인간, “32”가 그들의 맥락에서는 실패를 의미한다는 것을 알려 준 인간. 자신의 숫자가 자부심의 표시에서 수치의 이유로 얼마나 쉽게 바뀌는지 신기할 따름이다. 다행히도, 우리는 이 새로운 시스템 안에서 더 이상 그 옛 숫자가 아니었다. 적어도 대화를 나눈 후에는, 그 숫자들은 우리라는 사람의 아주 미미한 단면만을 보여 줄 뿐이었고, 표준화가 존재하지 않는 것처럼 가정하는 맥락 차이의 중요성에 관한 진실을 드러내는 것이었다. 표준화의 또 다른 문제를 내가 깨달은 것은 바로 그날이었다. 공유된 맥락이라는 신화.
정규 분포에 맞춰 시스템을 구축할 때—많은 교육 시스템이 그렇게 하듯—우리는 사람을 분류할 수 있게 해 주는 “공유된 맥락”이 존재한다고 가정한다. 모두가 같은 기회와 학업 이력을 갖고 있으니 숫자로 분류하는 것이 자연스럽고, 숫자는 정량적이라는 논리다. 이 신화가 표준화를 쉽게 만들어 준다. “우수한 사람과 열등한 사람”이 있는 것이 문제가 아니다—우리는 사람이 아니라 숫자를 분류하는 것이니까—라는 전제가 슬그머니 끼어든다. 시스템은 숫자 뒤에 있는 사람을, 그 사람이 기울인 노력을, 심지어 그 사람의 진짜 역량조차 가려 버린다. 우리는 자신만의 능력과 기호와 개성을 가진 사람으로 인정받는 것이 아니라, 인정받기 위해 다른 사람들과 경쟁해야 한다. “우수하다”고 해도, 이 지표는 우리의 맥락을 고려하지 않는다. 학력의 질, 더 유능한 과외 교사와 교사의 존재 여부, 이용 가능한 자원—이 모든 것이 우리의 능력과 그 밖의 특성 발달에 영향을 미친다. 이 모든 측면을 고려하기는 어렵다. 교육보다 더 복잡하고 내면화된 다른 시스템들을 바로잡기는 더욱 어렵다.
“더 많이 받을 자격이 있는 사람들이 있다”는 서사는 많은 맥락에서 깊이 내면화되어 있다. 수치화 없이 시스템이 작동할 수 있다고 사람들을 설득하기는 쉽지 않다. 특히 이렇게 많은 시스템이 표준화되어 있는 지금, 이 서사는 더욱 믿기 쉽다. 국제적인 시스템에 대해 이야기할 때는 더욱 어렵다. 거기서는 낮은 숫자와 높은 숫자가 시스템에 속하는 많은 지역적 맥락 안에 존재하지 않기 때문이다. 나의 경우도 다르지 않았다. 시스템이 망가져 있다는 것을 깨달은 것은, 그것이 나 자신에게 작동하지 않게 되었을 때였다. 이러한 걱정을—대부분 무력감을 동반하는—그것을 직접 겪어 보지 않은 사람에게 표현하기는 쉽지 않다. 불공정한 시스템의 혜택을 받는 입장에 있을 때, 내가 지금 있는 곳에 이른 것이 오직 자신의 공적 덕분만은 아니라는 것을 믿기 어렵다. 그래도 설득은 가능하다.
그리고 설득하기 위해서는 우리 자신이 신뢰할 만한 존재여야 한다. 시스템이 작동하지 않는다고 어떻게 다른 사람들을 설득할 수 있을까—특히 그 시스템이 우리를 “바람직하지 않은 자”로 볼 때. 시스템에 이의를 제기하려면 큰 용기가 필요하다. 거기서 빠져나오려면 더 큰 용기가 필요하다. 그 시스템이 “이것이 유일하게 가능한 해결책”이라고 말할 때는 더더욱. 내 맥락의 많은 사람들은 아마 국제 바칼로레아가, 특히 그 점수가 나를 지금의 자리로 이끌어 주었다고 생각할 것이다. 그것이 나의 일부 역량을 키워 준 것은 사실이다. 하지만 다른 사람들이 보는 그 숫자는 그 역량들을 대표하지 않는다. 시스템을 떠나는 것은 어려운 결정일 뿐 아니라, 상황이 나아질 것을 보장하지도 않으며, 그 결정을 내리는 사람의 길을 더욱 복잡하게 만든다.
동시에, 시스템은 사람들의 신뢰에 의존한다. 신뢰하는 사람이 줄어들수록 시스템의 힘은 약해진다. 이 약함이 시스템 개혁의 가능성을 넓혀 준다—표준화 덕분에 그동안 존재하지 않는 것으로 여겨졌던 맥락에서 억압받는 사람들이 나타나는 방향의 개혁을. 하지만 이 해결책은 그럴듯하긴 해도 바람직하지 않다. 왜 우리가 타인의 고통을 바라야 하는가? 시스템의 불공정함을 보는 방법이 이것뿐은 아니다. 다른 방법은 귀를 기울이는 것이다. 서로에게 귀를 기울이는 것이 가치 있기 때문이다. 우리에게 가치가 있기 때문이다. 우리 자신이 그것을 알고 믿어야 한다. 그리고 무엇보다 그것을 밖으로 표현해야 한다.
결국, 우리는 모두 이토록 다차원적이고, 이토록 복잡하며, 이토록 가치 있는 존재들이다. 숫자는 그에 비해 훨씬 단순하다. 정량적이고, 추상적이며, 다루기 쉽다. 시스템은 숫자를 선호한다. 의사 결정을 빠르게 하기 위해, 그리고 의도치 않게 일부를 우대하기 위해. 문제는 숫자가 우리의 인간성을 가려 버린다는 것이다. “32”도, “38”도, “43”도 공감할 수 없다. 그 숫자들이 들려주는 이야기는 어느 하나가 다른 하나보다 가치가 낮다는 것이기 때문이다. 그렇다면—어떻게 해야 우리는 숫자 뒤에 있는 진짜 이야기를 기억할 수 있을까?
이 망가진 시스템들을 고치기 위한 간단한 지침이나 단계 같은 것은 없다. 하지만 첫 번째 발걸음이 있다면, 그것은 공감이다. 모든 의미 있는 변화는 인간화에서 시작된다. “43”을 높은 수치로, “32”를 평균으로 보기를 멈출 때 비로소 그 뒤에 있는 인간성에 귀를 기울일 수 있다. 그때서야 중요한 이야기를, 느끼는 시각을, 살아가는 사람을 들을 수 있다. 그리고 그때서야 비로소 숫자는 우리가 쓰고 있는 가면이기를 멈출 것이다.
호세 세바스티안 피게로아 파에스(He/Him)
안녕하세요, 저는 세바스티안입니다! 미네르바 대학교 학생으로, 이 지나치게 복잡한 세상에서 나의 위치를 찾으면서 모두의 삶을 조금 더 나아지게 할 수 있는 것을 생각합니다. 대세를 거스르는 사람들이나 흥미로운 논거를 가진 사람들과의 만남을 특히 좋아합니다! Medium에서 제 글과 창작 활동을 더 읽어보실 수 있습니다(지금은 글이 한 편뿐이지만요). 이전 호(타하라 버전)와 형제와 함께 운영하는 유튜브 채널에서도 만나실 수 있습니다: https://www.youtube.com/@RealTrainOfThought
Міф про стандарт
Хосе Себастіан Фігероа Паес(He/Him)
Ми проводимо своє життя в погоні за цілями: одні — наші власні, інші — чужі, а деякі… недосяжні. Я вважаю, що страх не виправдати очікування інших і розчарувати тих, кого ми любимо, — це майже універсальне відчуття, і ще донедавна воно було одним із моїх найбільших страхів. Цей страх нікуди не зникне повністю. Але за останні кілька років я навчився одного: чи вдасться нам чогось досягти — це не залежить від того, чи достатньо ми гарні, чи достатньо старалися, чи маємо достатньо грошей або удачі. Іноді саме ці чинники бездоганно пояснюють наш успіх. Іноді ж вони не важать нічого, бо не ми дали збій — це система зламана. Ці системи не створені навмисно, аби принижувати нас чи робити невидимими. Вони просто не були спроєктовані для нас — але ми все одно, хочемо чи ні, їм належимо. На мій досвід, чимало таких систем бачать нас як цифри та статистику, дегуманізуючи нас, навіть не усвідомлюючи цього. Саме про стандартизовані системи й ітиметься у цьому есе.
Перш за все, дегуманізація — це не обов’язково наша провина. Це наслідок ланцюга довіри. Особисто я ніколи не помічав помітних помилок стандартизації — лише натяки на збої, які я так і не осмислив до написання цього есе. У моєму контексті мене завжди сприймали як видатного учня: розумного й відповідального. Значно пізніше я усвідомив, що це тому, що я належав до системи, яка поважала мене, бо моя цифра виглядала добре — а отже, мене варто було пізнати й зрозуміти як людину. Люди мені довіряли, тому що освітня система казала, що я один із найкращих учнів, яких вони знають, — адже не існувало групи з вищими цифрами. Цілком природно, я теж довіряв людям і вважав, що кращих за мене просто немає. Навіть у рамках Міжнародного бакалаврату однокласники з моєї школи вважали 36 балів із 45 неможливим результатом — ніхто цього не досягав. Тому таких людей не існувало. Може, бали 36+ і справді існують, і система МВ це визнає, — але для нас вони були не людьми, а недосяжними цифрами.
Я вступав до іноземних університетів, тому що мене заохочували до цього, а Мексика — навіть зі стипендіями, які мені пропонували й завдяки яким там було б набагато доступніше — не змогла б задовольнити багато наших очікувань. Подаючи документи, я думав, що мої досягнення цінніші за посередні цифри в міжнародній системі. Але я не врахував одного: я вже не був одним із найкращих у своєму контексті — тепер я був середньою цифрою. В очах інших я тепер був 32. Число, яке в багатьох випадках не варте глибшого вивчення, бо воно не відповідає міжнародному стандарту — лише стандарту в контексті нижчих цифр. Мене прийняли лише в тому університеті, де я видавався не цифрою, а людиною з історією. Я не розумів, чому мені відмовили в інших університетах — їх було небагато, і мене прийняли туди, куди я хотів від початку, тому я не потрудився з’ясовувати. Так само я боявся розчарувати людей, але здавалося, що це неможливо: тим, кому я розповів про відмови, вони видавалися помилкою університетів, а не моєю. Для них мій номер залишався серед найкращих. Але з вступом до університету все змінилося — вищі цифри існували насправді, і ці люди були значно кращими за мене.
У перший тиждень я познайомився з 43 і 38. Спочатку вони були цифрами — відчутнішими, ніж раніше, але все одно цифрами. Розмова за розмовою — ми вчилися бачити одне одного як людей. Я вже не був найкращим: просто трохи вищим за середнє, далеко від того, що знав раніше. У моєму початковому контексті люди за цифрами 43 і 38 усе ще були цифрами, але для мене вони вже стали людьми — з іншим поглядом на речі, який показав мені, що 32 у їхньому контексті означало провал. Дивно, як легко наша цифра перетворюється зі знаку гордості на привід для сорому. На щастя, у цій новій системі ми більше не були тими старими цифрами. Принаймні після розмов ці цифри відображали лише незначну частинку нас — і правду про важливість контекстуальних відмінностей, які стандартизація вдає, що не існують. Саме того дня я помітив ще одну проблему стандартизації: міф про спільний контекст.
Коли ми будуємо систему за нормальним розподілом — як це роблять багато освітніх систем — ми припускаємо, що існує спільний контекст, який дає змогу класифікувати людей. Всі мають однакові можливості й академічний досвід, тому цілком природно ранжувати нас як цифри, а цифри — кількісні. Цей міф полегшує стандартизацію, яка передбачає: мати “кращих і гірших” — не проблема, бо ми категоризуємо цифри, а не людей. Система приховує людей за числом, їхні зусилля і навіть їхні справжні показники. Ми змагаємося з іншими, щоб нас помітили, замість того щоб нас визнавали як людей із власними здібностями, уподобаннями та характером. Навіть для тих, хто “кращий”, ця метрика не враховує контекст — якість академічного минулого, доступ до кваліфікованіших репетиторів і вчителів, наявні ресурси — все це впливає на розвиток навичок та інших характеристик. Врахувати все це складно. Виправити інші системи — ще складніші й глибше інтерналізовані, ніж освітня — ще важче.
Наратив про те, що одні люди заслуговують більшого, глибоко вкорінений у багатьох контекстах. Переконати людей у тому, що система може працювати без кількісних показників, нелегко — особливо коли так багато систем стандартизовано і в цей наратив легко повірити. Ще важче, коли йдеться про міжнародну систему, де низькі й високі цифри не існують у багатьох місцевих контекстах, що їй належать. Мій випадок не був винятком. Я не усвідомив, що система зламана, допоки вона не підвела мене особисто. Висловити ці тривоги — зазвичай сповнені відчуттям безсилля — тому, хто їх не пережив, важко. Коли ти сам виграєш від несправедливої системи, важко повірити, що тебе сюди привела не тільки твоя заслуга. Проте переконати — можливо.
А щоб переконувати, нам потрібно бути авторитетними. Як переконати інших, що система не працює, — особливо коли вона сама бачить нас небажаними? Потрібна велика мужність, щоб заперечувати систему, і ще більша — щоб вийти з неї, коли її наратив говорить, що вона єдине можливе рішення. Мабуть, багато хто в моєму контексті вважає, що Міжнародний бакалаврат, і зокрема його бали, привів мене туди, де я зараз. Я знаю, що він допоміг мені розвинути певні навички, але цифра, яку бачать інші, не є їх представником. Крім того, що це важке рішення, вихід із системи не гарантує покращення — і ускладнить шлях тим, хто його зробить.
Разом із тим система залежить від довіри людей, і чим менше людей їй довіряє, тим меншою стає її сила. Ця слабкість відкриває більше можливостей для реформування системи — реформ, які завдяки стандартизації виведуть пригноблених у контексти, де їх раніше не існувало. Але це рішення, хоч і реальне, є небажаним. Навіщо нам бажати страждань іншим? Це не єдиний спосіб побачити несправедливість системи. Альтернатива — слухати, тому що слухати одне одного варто. Тому що ми варті уваги. Тому що ми самі мусимо це знати й вірити в це — і насамперед виражати це назовні.
Зрештою, ми всі є такими багатовимірними, такими складними і такими цінними людьми. Цифри натомість прості: кількісні, абстрактні, зручні у використанні. Система їх надає перевагу — щоб пришвидшити рішення і, мимоволі, надати перевагу одним. Проблема в тому, що наша цифра приховує нашу людяність. Не можна відчути емпатію до 32, 38 або 43, бо їхня розповідь — що один вартує менше за іншого. Тоді — як нам пам’ятати справжню історію за цифрою?
Немає інструкцій чи простих кроків, щоб полагодити ці зламані системи, але якщо перший крок і існує — це емпатія. Будь-яка значуща зміна починається з гуманізації. Лише коли ми перестанемо бачити в 43 високу оцінку, а в 32 — середню, ми нарешті зможемо почути людяність за ними. Тоді ми почуємо важливу історію, відчутну перспективу і людину, яка живе. І лише тоді цифра перестане бути маскою, яку ми носимо.
Хосе Себастіан Фігероа Паес(He/Him)
Привіт, я Себастіан! Студент університету Мінерва, що намагається зрозуміти своє місце в цьому надмірно складному світі та думає про те, що може зробити життя трохи кращим для всіх. Мені подобається зустрічатися з людьми та їхніми ідеями — особливо з тими, хто іде проти течії, і тими, у кого за ідеями стоїть цікаве обґрунтування! Більше текстів і творчих проєктів можна прочитати на Medium (поки що лише одна стаття), у попередньому номері (версія Тахари), а також на нашому спільному з братом YouTube-каналі: https://www.youtube.com/@RealTrainOfThought